マエストロの工房に通い、ヴァイオリンを一台作る卒業後実習(Tirotinio)が始まりました。工房に通いながらのヴァイオリン作りは入学した時の夢でしたが、それが実現しました。毎日半日、工房に居ることになったのですが、マエストロの子供達も時々見え、マエストロの思わぬ一面を知ることができました。このあと約3年間工房に通うことになり、私のヴァイオリン作りに大きな影響を受けました。
また、この年には私と同じ歳のイタリア語の先生が亡くなりました。朝早い授業の日はまだ誰も来ていないので、「五嶋、バールへ行こう」と良く学校前のバールでワインやコーヒーを飲んだりしました。長い休みの前には、「別荘に来ないか?」とよく誘われたのですが、ついに行くことができなかったのが悔やまれました。
こちらは卒業後の研修(イタリア語でTirocinio)が始まり、毎日マエストロの工房に通っています。当初の予定では10月下旬から始まる予定だったのですが、主催者が今までのロンバルディア州から学校に変わったこともあるのですが、障害保険の手続き等が遅れ結局は11月17日が正式な開始日になりました。この研修は週に25時間以上マエストロの工房で作業することが条件となっているのですが、私のマエストロのVoltiniは、学校の授業もあるので時間が取れず、土曜日も通うことになりました。
マエストロVoltiniはイタリア人ですが見た感じはドイツ人のようです。性格的にもイタリア人のように気軽に話しかけるタイプではないので工房ではそんなに話はしませんが、最近ではだいぶ慣れてきて時々バールに行き、ワインやコーヒーを飲んだりしています。彼は46歳で3人の子供がいますが、一度は奥さんと3人の子供が工房にきたので、まるで工房が幼稚園のようになりました。長女は12歳前後、長男は10歳、次女は6歳前後ですが3人が工房の中で思い思いに遊び、長女はパソコンで絵を描き、長男は木の模型の船を作り、次女は床の上に座って遊んでおり賑やかでした。また、時々、長女や長男は学校の宿題をするために工房に来て、わからないところをマエストロが教えています。マエストロの思わぬ一面を見ることができますが、親子のふれあいを大事にするイタリア人に感心させられます。
この研修ではグァルネリ・デル・ジェス(Guarneri del Gesu)の1742年製のカンノーネ(英語でカノン)を作っています。今まで学校や家ではストラディバリのモデルを使って作っていたのですが、少し系統の違うグァルネリも習う必要があると考えたからです。欠点の少ないストラディバリに比べてグァルネリは作品のバラツキが多いのですが、全盛期の作品はストラディバリ以上の高い評価を受けています。この楽器は19世紀初めに活躍した天才ヴァイオリン演奏家のパガニーニが終生愛用していたもので、弾いた音がビックリするほど大きかったのでカンノーネ:Cannone(イタリア語で大砲という意味)と名付けられたのです。作る上では、隆起の形やヴァイオリン中央部のCの形、渦巻きなどがストラディバリとは違っています。
この研修は3月中旬までの予定ですが、それまでにヴァイオリンを一台作ることになっています。まだマエストロには確認していないのですが研修が終わった後もしばらく通い、ニスや学校では途中までしか出来なかったチェロも習おうと思っています。Voltiniはクレモナで3年に一度開かれる国際的な楽器製作コンクール(トリエンナーレ)で1994年にチェロ部門で優勝しており、是非、彼の作り方を習いたいと思っています。
家でのヴァイオリン作りは六台目が完成しました。そこでニスの塗り方を教えてもらおうと思い、マエストロのところに持って行ったのですがいろいろ指摘され修正を言われました。前にも書きましたがクレモナのヴァイオリン作りの流派はモラッシー(Morassi)派とビソロッティBissolotti派の二つがあるのですが、このヴァイオリンはBissolottiの作り方で作ったものです。マエストロはMorassi派なので一見してBissolotti派と分かるこのヴァイオリンを見て「自分はこのヴァイオリンは好きでない」と言われてしまいました。Morassi派の楽器は少し細身の感じで、どちらかというとフランスの楽器に近い感じで少しエレガントです。Bissolotti派はストラディバリ時代からの作り方を出来るだけ継承しており、見た感じはどっしりしています。今まで学校ではMorassi派の作り方を習い、家ではBissolottiの工房に通いBissolottiの作り方で作っていたのですが、そろそろ自分のスタイルを決める時期に来たようです。
ところで、クリスマスイブの24日は深夜にヴァチカンで行われたミサをテレビで見ていました。以前から健康上の問題があるといわれているローマ法王ですが、約2時間のミサを無事に行い、まわりの人はほっとされたのだと思います。イラクでの戦争がまだ終わっていない状況での今年のミサは参列者の皆さんの深い祈りが印象的でした。ただ、27日の新聞にはイタリアの首相が「実はこのミサがテロの標的になっていた」という告白記事がでていました。
クリスマスの25日は11時頃に近くのバールに行き、イタリア人の友達と会ってクリスマスを祝いました。クリスマスだから特別のワインを飲もうということになり、直径12、3センチの大きなグラスに注いでしばらくグラスを回してから飲みました。ほとんどの人はスーツを着てバールに来ており、ミサには朝、行ったとのことでした。みんなワインを飲み(中には水の人もいます)、クリスマスを祝いましたが、家族と一緒に過ごすため直ぐ帰った友達もいました。
今年を振り返ってみますと、個人的には学校を卒業し、一つの区切りがつきました。4年間通った学校ですが、おそらくイタリア人を含めて最高齢の卒業生だと思います。今思うと本当にたくさんの友達や先生に助けられて卒業できたと思っています。学校の用務員のオバさん達がいつも「元気でやっている?」と声をかけてくれ励ましてくれたり、料理の作り方を教えてくれたのが思い出されます。ただ、悲しいのはイタリア語の先生がこの10月に亡くなったことです。彼は私と同じ年で、「友達の五嶋」と声をかけてくれ、休憩時間などに学校の前のバールに行き、コーヒーやワインを飲んだりました。卒業の時は論文のチェックを一番よくしてくれました。本当にこの先生のお蔭で卒業できたのですが、心臓麻痺で急に亡くなりました。亡くなる一週間前に学校で会った時に、何となく顔色が悪く気になっていたところでした。
11月には富士ゼロックスの友人がクレモナを訪ねてくれましたが、新しい発見がありました。クレモナには地元の人が自慢するサン・シジスモンド教会があります。この教会は貴族の娘が結婚する時に建ててもらったもので、内部の絵やフレスコ画、それに椅子などの細工が優れており、私も何回か見たことはありました。イタリア人の友人が案内してくれるというので彼の車で教会に行ったのですが、夕方の6時前で既に辺りは暗く教会は締まっていました。イタリア人の友人が「日本から来ているので何とか見れないか」と教会の人に頼んでくれました。「じゃ、5分だけ」ということで教会の入り口の戸を開けてくれ、中は真っ暗だったので照明をつけてくれました。教会の中がパァーと急に明るくなり壁や天井にある絵が浮き上がって見えその美しさに思わず声をあげました。今まで来た時にはまだ外が明るいこともあり照明はなく、絵の細部は良くみることができませんでした。「あぁ、これで地元の人が自慢するわけが分かった」と教会の建物を出ました。そして帰ろうとすると、イタリア人の友人が「おまえは最後の晩餐は見たことがあるか?」と聞くのです。「いや、ないよ。ミラノの最後の晩餐はあるけど」というと「それじゃ、せっかくだからそれも見せてもらう」と別の建物に歩いて行きました。また先ほどと同じ人が出てきて、「ミサがすぐ始まるのでちょっとだけだよ」と建物の中に入れてくれました。小さな礼拝堂のような建物の中にはミサが始まる直前なので参列の人達がいたのですが、友人が指差すので正面を見ると最後の晩餐のフレスコ画があるのです。大きさはミラノより少し小さい感じですがあまり変わらず、素人の私からみると絵の構成もそんなに大きな違いはありません。いや、むしろミラノの最後の晩餐は建物の中にこの絵しかありませんが、こちらは礼拝堂の中にあり、他の絵や机、椅子などと調和しており、最高の場所にあります。ミサが始まる直前のほんの1、2分の時間しか見ることができませんでしたがクレモナに来て一番の発見です。
今年は多くの人が反対したにもかかわらずイラクで戦争が始まりました。ご存知のようにナシリアではイタリアの軍人ら19人が亡くなりました。日本も二人の外交官が亡くなりましたが、イラクへの自衛隊派遣が始まり、さらに犠牲者がでることが予想されます。アメリカに都合の良い復興支援ではなく、イラクの人々から信頼される支援が早く始まるよう期待したいものです。
今年もあとわずかになりましたが、全世界がテロの脅威におびえ、新年を迎えようとしています。来年こそは日本の景気も回復し、世界の人々が安心して暮らせるよう願っております。