五嶋 芳徳のプロフィール
出身地 香川県丸亀市
生年月日 1948年1月31日
経歴
- 1972年3月
東京理科大学理学部Ⅰ部物理学科を卒業 - 1973年7月
富士ゼロックス(株)に入社 - 1999年8月
同社を早期退職勧奨制度(FLEX RETIREMENT)を利用して退職 - 1999年9月
クレモナの国立国際ヴァイオリン製作学校に入学(2年生に編入される) - 2003年7月
同校を卒業 - 2003年11月~2006年5月
卒業後の実習をマエストロA.Voltiniの工房で行い、その後も同工房で修行 - 2006年8月
クレモナ市より開業の正式許可がおり、8月1日よりマエストロとして活動 - 2011年11月
イタリア・クレモナより帰国 - 2012年4月
東京・多摩市に工房を開き、ヴァイオリン製作および製作教室を開き活動中
何故ヴァイオリン作りになろうと思ったのか?
大学時代には混声合唱団に入り、パレストリーナやバッハなどの宗教音楽を中心に歌っていました。仲間とはよく音楽の話になりましたが、クラシック音楽のことはあまり知らなかったので友達の話を感心しながら聞いていました。そのうち、念願のステレオを買い、FM放送やレコードをよく聴くようになりました。今でも一番最初に買ったレコードのことをよく覚えています。カラヤン指揮の「新世界」でした。中学校の音楽の時間にステレオで聴いた記憶があり、この曲を選びました。三畳一間の小さな部屋でレコードに針を落とし、静かにゆっくり始まりだんだん高揚していく音楽に感動しました。安いステレオでしたが、あの時の音は最も感動した音でした。
そして、だんだん私もクラシック音楽が好きになっていきました。最初は交響曲を、そのうちにピアノやヴァイオリン、声楽、オペラなどをよく聴くようになりました。ただ、その中でも表情豊かなヴァイオリンの音に魅せられ、よくヴァイオリン音楽を聴くようになりました。中でも、バッハの無伴奏、ベートーベンのソナタや協奏曲、そしてブラームスのヴァイオリン協奏曲などを良く聴いていました。
一方、会社での仕事は、電子回路の開発や生産技術関連の仕事で、最先端に近い技術にも触れることができ、面白い仕事でしたが、もともとサラリーマンが好きではなかったので、60歳の定年まで勤めるつもりはありませんでした。40歳頃からは、将来、音楽関係の仕事をしたいと考え始め、外国のオーケストラの招致の仕事や、レコード店の経営、音楽やオーディオ関係の雑誌の出版などの仕事をしようかと漠然と考え始めていました。
何故イタリアのクレモナで勉強、修業したのか?
ヴァイオリン作りになろうと思い、42,3歳の頃、東京にあるヴァイオリン製作学校に入ろうとしましたが断られてしまいました。多分、ヴァイオリン作りとして生活するには私の年齢からは難しいと判断された親切な忠告だったのでしょうがちょっとショックでした。年齢などに関係なくもっと自由に入れるものと思っていたからです。しかし、自分の将来のことを考えるとどうしてもヴァイオリン作りを勉強したいと思い、その後、日曜日に開いているヴァイオリン製作教室を見つけ、約10ヶ月通い、一台作りました。出来はあまりよくありませんでしたが、ヴァイオリン製作の大体が分かり、これなら自分もできると思いました。初めは東京で何処かの工房に弟子として通い、勉強を続けていこうと思いましたが、日本の職人の閉鎖的なところが気に入らず、どうせ習うならドイツで習おうと思い、ミッテンヴァルトの学校にも何回か訪ね、入学をしようとしましたが、年齢制限があり、ダメだということが分かりました。そのあと、ドイツの製作家のところで勉強しようと思い、2,3のマイスターに手紙をだしてお願いしましたが、なかなか返事が来ず、困っていたところでした。そこで直接会ってお願いしようと思い、ドイツに行ったのですが、結局は成果はありませんでした。その旅行の最後にヴァイオリンの街、イタリアのクレモナに寄りました。その当時、日本ではクレモナの学校のことは評判がよくなく、どんなところかちょっと立ち寄ってみようという気持ちで行きました。7月の下旬でヴァカンスで閉まっている工房が多かったのですが、ちょうど立ち寄った工房で6月にあった入学試験を受けたばかりの日本人の若い方が製作を勉強しており、学校の入学試験のことなどを聞くことができました。その結果、年齢制限がなく、試験を受ければ誰でも入学できるということが分かりました。そのあと、2,3日クレモナにいて、開いている工房を訪ね歩きました。どのマエストロも気さくで明るくて、そして親切でした。ヴァイオリン作りを勉強するには最高の場所だと思いました。授業料が非常に安いこともあり、結局、クレモナを発つときにはここで勉強しようと決心しました。学校が始まる9月に、学校の入学願書を送ってくれるように親切な女性(この人はヴァイオリン関係の雑誌の仕事をしていることが後で分かりました)にお願いして、クレモナをはなれました。さっそく日本に帰るとイタリア語の勉強を始めました。サラリーマンをしながら必死に勉強しましたが、あまり効果はなかったようでした。翌年(1999年)6月に3年生編入への入学試験を受けました。月曜から金曜まで試験があり土曜日に発表がありましたが、結局、2年生に編入されました。
イタリアに行き良かったか?
健康面では、今思うと高血圧の持病のある私にとっては、山の中にあり冬は寒いドイツの学校よりも、暖かくて食べ物の美味しいイタリアの方があっていたと思います。
ヴァイオリン作りの面では、マイナスとしては、イタリア語が良く分かっていないので日本で習うよりも2~3倍くらい時間は掛かっていると思います。しかし、プラスとしてはイタリア人の感性、特に曲線に対する感性の鋭さは日本では習うことができません。また、偉大なBissolottiやMorassiの仕事ぶりを見ることによって彼らのヴァイオリン作りに対する考え方を知ることが出来ます。一般的にいって日本人は正確な仕事をすることはできますが、見て美しい楽器を作るという面では、イタリア人から学ぶことが多いと思います。”樹を見て森を見ず”という言葉がありますが、ヴァイオリン作りにもこれがあてはまると思います。
ヴァイオリン作り以外の点では、歳をとっていることもあり,イタリア人の友達が多くできイタリアでの生活を楽しんでいました。おそらく、もっと若い時に来ていると、いろいろ不備のあるイタリアのシステムに我慢できず、イタリア人社会の中に入っていけなかったかもしれません。よく言われるようにイタリア人は人生を本当に楽しんで生きています。彼らと一緒にいると日本で朝から晩まで一生懸命働いていたのがウソのように思えます。イタリア人の多くは日本人は金持ちだと思っています。休みなくよく働いているので当然かもしれませんが、本当はイタリア人の方が人生を豊かに生きていると私は彼らに良く言いました。
日経掲載記事(2003年7月30日夕刊一面)
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